本と映画と日常と

自分が読んだ本、鑑賞した映画と日常の徒然を書き留める備忘録ブログです。感想記事にはネタバレもありますので、各自の判断と責任のもと閲覧くださいませ。

【17.08.10.】『夜明けの祈り』鑑賞

 

 

夜明けの祈り [DVD]

夜明けの祈り [DVD]

  • 発売日: 2018/02/02
  • メディア: DVD
 

あらすじ:
第2次世界大戦末期の悲劇的な事件によって傷ついた修道女たちを救うべく尽力した、実在の医師マドレーヌ・ポーリアックをモデルに、「ココ・アヴァン・シャネル」のアンヌ・フォンテーヌ監督が描いたヒューマンドラマ。
1945年12月、ポーランド
赤十字で医療活動に従事するフランス人女性医師マチルドのもとに、ひとりの修道女が助けを求めに来る。
彼女に連れられて修道院を訪れたマチルドは、ソ連兵の暴行によって妊娠した7人の修道女たちが、信仰と現実の間で苦しんでいる姿を目の当たりにする。
マチルドは修道女たちを救うため激務の間を縫って修道院に通うようになり、孤立した修道女たちの唯一の希望となっていく。
映画.comより)


映画『夜明けの祈り』予告編


【ここから感想です】

 

原題・邦題のどちらも内容に相応しいタイトルだと感じます。
Innocente=フランス語で「無実の」「あどけない」などの意味。
でも、無垢という意味も含まれているのかな、と思いました。
(英語のinnocenseには無垢という意味もありますよね、確か)。
不本意な妊娠により生まれてきた赤ん坊、また、その母親の一人であるゾフィを象徴するようなタイトルだと感じました。
邦題『夜明けの祈り』についても、「明けない夜はない」と希望を感じるラストに相応しいタイトルだと思います。
また、女医のマチルドがフランス赤十字の規律を破り、危険を冒してまで修道女たちを支えるために修道院へ赴くのが夜明け前しかない、という設定にも巧く絡めているのかなと思いました。

実話に基づく物語、そして戦時下に於ける正視に耐えない凄惨な出来事を取り上げた作品とのことだったので、自分が鑑賞に耐えられるかと観る前は不安でしたが、それ自体の描写はなかったので幾分か救われました。

でも「幾分か」でしかなく、修道女たちの心情を思うと胸が痛み、彼女たちの価値観や概念などから考えると、相手を恨むことも憎むこともできず、ひたすらに神に祈るという無垢さが悲劇としか言いようがなかったです。
カトリックでは、貞操を固く守るという戒律があるようで、例え同性でも肌を晒してはならない、触れてはならないらしいです。
修道院への不条理な乱入、人として扱われていない性的暴行、望まない妊娠、どれをとっても修道女たちに罪はないのに、彼女たちにとってのそれらは「神が与えたもうた試練」であり「ひたすらに祈って犯した罪の赦しを乞う」ことしかできず、神の罰を恐れてその事件を隠して暮らしている。
神様仏様を信仰していない私から見たら、「神が与えた試練」と「(ソ兵ではなく修道女が)罪を犯した」の矛盾にどうして気付かないのかと思いましたが、この作品は反戦映画でも宗教の是非を問う作品でもなく、その辺りの憤りに近い疑問は次第に別の形となって自分の中に鑑賞後も残ることになりました。

フォンテーヌ監督は、この作品を制作するに当たり、実際に修道院で過ごし、リアルな修道女の生活を作品に反映させているようです。
一日の多くを神に祈りをささげる彼女たちも、夜のひとときは刺繍をしたり、チェスを楽しんだり、おしゃべりをしたりと、ごく普通の「人間」であることが端々に覗けてしまうだけに、修道院長の補佐であるシスター・マリアの

どんなに祈っても心が慰められないの。
毎日、あのときの光景がよみがえってくるわ。
男たちの臭いも。


という言葉の重みに鼻の奥がツンと痛みました…。
そして彼女は続けます。

私はまだいいほう、ここへ来る前に恋人がいたから。
でも、この修道院にいる子の大半は処女だった。


神に身も心も捧げる生活をしてきた彼女たちが、凌辱を受けて以降に抱える罪の意識の大きさを考えると、筆舌に尽くしがたい。
不信心者としてはその教えはどうなんだと思う一方で、しかしその教えに従いひたすらに祈ることで修道女たちが辛うじて心の正常を保つことができている=救いになっているということも事実だと認めざるを得ない、そこに息苦しさや切なさ、悲しみを感じました。
カトリックは自殺も罪としています。
神が与えたもうた命を、神の意向に反して己の采配で断つのは罪、らしいです。
無実なのに神に罪と見做され、かと言って死ぬことも許されず、という状況は、心の中でどれだけ多くのものを溜め込むことになるのだろうかと思うと、したり顔で人権論や医学の見地から診察を受け容れるように、などとは言えない気分になります。
その辺りは、多分鑑賞者もマチルドの心の変化とリンクしながら観たのではないかと思います。

マチルドは当初「医師として」の見解で診察を強く勧めますが、次第に人として、女性として、共感や心のケアというスピリチュアルな方面にも気付いてゆきます。
それに呼応するように、修道女たちもマチルドに心を開き、教えの中で肌を晒してはならない、触れられてはならないという教えを心から一度取り除いて診察を受け容れていきます。
もちろん、すべての修道女が受け容れたわけではなく、多くの日本の鑑賞者はマチルドに共感しながら焦れる想いでいつつも、彼女たちの信仰心を無碍にできないジレンマに陥ったのではないでしょうか。

修道院長は「人の命よりも教えのほうが大事」その最たる人物で、頑ななまでに「修道女」としての道を進みます。
(多分、ですが、キリスト教に於いて人は生まれながらにして罪な存在で、キリストがそのすべてを背負ってくれているので、教えに従い、贖罪と祈りが優先なのだろうと私は思っています)
道長は神の教えに従った結果、無垢で生まれた罪のない赤ん坊を厳寒の森に捨てる=殺人という行為に走ってしまいます。
赤ん坊を殺すことになるという概念は人としての心がどこかで分かっている、けれど、政の方針がころころと変わる状況の中、修道院の存続のため、修道女たちを世間による誹謗中傷で辱められる事態から守るために、その道を選びます。
鑑賞者は恐らく彼女を糾弾する気持ちにはなれないのではないでしょうか。
少なくても私は、彼女の中に人としての葛藤を見てしまったので、教えに縛られている彼女の行動がただただ悲しくて、その頑なな信仰心をどうやったら一度横に置いてもらえるのだろうかと、いまだに答えが出なくて悶々としています。
神の御心に委ねると決めたのは、この事件が露呈すれば修道院は閉鎖され、修道女たちは、その立場のくせにレイプをされた恥ずべき存在と差別を受けるから。
独ソのお偉い方々の勝手で振り回されているポーランドが、修道院への対応を二転三転させるような時代で、彼女は修道女たちをまとめる立場の人間として、神に仕える者として、彼女の中での正解を貫こうと「個人としての自分」と戦っているのが彼女の表情などからこれでもかというほど伝わってくるからです。
森にはイエスの十字架が立てられ、そこに赤ん坊を置き、修道院長は目を潤ませながら切実な表情で神に祈ってから立ち去るんですね…葛藤が言葉ではなく、表情と態度に滲み出ていて、もう誰がいいとか悪いとかいう次元ではないと痛感させたれ、ただただその場面は苦しくて、巧く言葉に置き換えられないいろんなものがゴチャゴチャっと一度に押し寄せてきました。

そんな辛酸の積み重ねの中、次々と赤ん坊が生まれます。
当然ですね、同時に犯されているのだから、身籠った時期も一緒なわけで。
そんな状況の中、マチルドは上司からポーランドからの撤退を知らされます。
彼女たちの行く末、赤ん坊を修道長から守る術を考えざるを得ない状況。
そしてマチルドは宗教や国籍の垣根を超えて信頼関係を築いたマリアにある提案をします。
それによって、マチルドが立ち去ったあとも、マリアと若い修道女たちを中心に、予想外の展開が起こります。
そこが、まさに救いの部分で、観る者にも
「どうかその平穏と癒しが続きますように」
と願わずにはいられないものでした。

この作品は、反戦がテーマでもなく、宗教についてのどうこうというのでもなく、母性神話の啓蒙作品というわけでもなく。
じゃあ、なんですか、と問われると答えられないところが、人としての自分が未熟なんだと思わされる、そんな内容の作品でした。

無垢と寛容。

筆舌に尽くし難い状況なのに、修道女たちの在りようやマチルドの貢献などに、それが一貫しているような作品でした。
そんな感想を抱きながら、あとでプログラムを読んでみたら、フォンテーヌ監督がインタビューで

個人を殺してしまう暴力に対して、光は個人を浮き立たせる。
どんなことがあっても道は切り拓かれるのだと感じてもらえたら


と答えていらっしゃいました。
この作品では「正解はこうです」というような、監督からの押し付けがありません。
言い換えれば、上述の言葉を用いれば「光」も「道を切り開く術」も、鑑賞者の手に委ねられているというか。
とても唐突なのですが、ネットを見てもテレビを見ても身近な(職場や学校など)場でも、糾弾の嵐で、とても不寛容な社会になっていると感じるこの頃(というか、もう何年もですが;)、誰もが大なり小なり「(言葉や物理的な)暴力によって個人を殺されている」日々を送っていると思います。
自分を守るため、攻撃は最大の防御とばかりに誰かを詰る謗る、当たり障りなく接して逃げる、近付かない、などなど、視野狭窄に陥り、寂しいくせに誰かといると余計に孤独を感じたり、という不自由な毎日が当たり前になっているような気がします。
諦めから不寛容になったり、人との間に心の垣根を作ったり。
でも、それでは光も切り拓く道も見えないのではないか、と教えられたような気がします。
それすらも、あくまでも「私の受け止め方」であって、この作品は鑑賞者が個々に抱える何かしらに対して「希望の光」を感じさせてくれる作品だと思いました。

プログラムを見て不安を覚えたのは、作品を理解するに当たり、ポーランド現代史の教授から第二次世界大戦から戦後辺りの歴史の解説が載っていたこと。
私は近代史がとても苦手で、学生時代恥ずかしい点数しか取れない人でしたが、それでもポーランドが頻繁に周辺諸国に振り回されているのを記憶していたので、今はそういう認識さえ薄れているほど「戦争が遠い日の出来後事」になっているのか、とうすら寒い思いをしました。
近代史苦手な私でも記憶していたのは、題材としてこの時代のある物語が英語の教科書に掲載されていて、それを全文暗記するという課題があったからだと思います。
その物語のタイトルを思い出せないのが悔しい…。
今読んだら当時とはまったく異なる感想を持ったであろうに、教科書は処分済みだしタイトルを失念しているので当該書籍を探すこともできないしで、悔しいです…。

映画に造詣の深い方は、もっとこの作品を的確に読み解くレビューを書かれているかもしれません。
公開してから間もないので、まだあまり見られなくて、今後しばしばチェックしてみたいと思っていますが。

本題はそこにないのだろうとは思いますが、被差別者もまた無自覚なまま別の差別をしているものだと感じさせるシーンも、私にとっては印象深いものでした。
同時に産気づかれたら、マチルド一人ではどうにもならない。
そこで、マチルドは信頼できるユダヤ人の同僚医師(男性)を伴って修道院を訪れます。
そのとき、マリアや修道長は眉を顰めます。
彼が男性だからというだけでなく、ユダヤ人だからです。
自分が後ろ指をさされるようなことをしたわけでもないのに差別や迫害を受けると恐れている立場でありながら、差別や迫害の理由が異なるだけで同じ立場にあるマチルドの同僚医師を疎む目で見る修道長やマリアの反応は、我が身を振り返らされました。
同僚医師の男性は、カトリックの教えに基づきあれこれと彼の助産を拒もうとする彼女たちに一喝します。

まだ話があるのかい?
そうだ、私はユダヤ人だ。だが私の仕事は医者なんだ。
医者は人の命を助けるのが仕事だ。
仕事がないのであれば帰る。
どうする?


シスターたちは同胞を人として慈しんでいます。死なせたくはない。
なので、そう切り出された修道長とマリアは、我に返ったように即決で同僚医師の男性もマチルドともども妊婦たちのいる部屋へ促します。
そういった小さな一つ一つが集まって「希望の光」へと育っていくのだと感じます。

戦時下という特殊な状況の中の特別な出来事ではなく、現代社会に通じる様々な事象が作品のあちこちに散りばめられていると感じる作品です。
この数分で終わるシーンも、その中の一つ。
一人でも多くの人がこの作品から気付きを得られたらいいと思うくらいには、直接的な言葉で語られない多くの示唆が盛り込まれている作品だと思いました。
登場するすべての人たちから、自分の在りようを振り返らされ、また、自分はではどうあろうかと考えさせられる作品でした。