本と映画と日常と

自分が読んだ本、鑑賞した映画と日常の徒然を書き留める備忘録ブログです。感想記事にはネタバレもありますので、各自の判断と責任のもと閲覧くださいませ。

【14.05.07.】『手紙』感想

手紙 (文春文庫)

手紙 (文春文庫)

  • 作者:東野 圭吾
  • 発売日: 2006/10/06
  • メディア: 文庫
 

あらすじ:
 強盗殺人の罪で服役中の兄、剛志。
 弟・直貴のもとには、獄中から月に一度、手紙が届く…。
 しかし、進学、恋愛、就職と、直貴が幸せをつかもうとするたびに、「強盗殺人犯の弟」という運命が立ちはだかる苛酷な現実。

 人の絆とは何か。
 いつか罪は償えるのだろうか。

 犯罪加害者の家族を真正面から描き切り、感動を呼んだ不朽の名作。
(「BOOK」データベースより)





【ここから感想です☆】

 


 読了後に自分の備忘録としてこの感想記録を付けている次第ですが、amazon掲載の上記内容を見て、改めてこの作品の説明の困難さを感じる現在です(読了直後)。
 進学、恋愛、就職と、(中略)苛酷な現実
(青文字は引用文再掲)
 などという簡単な言葉では、本作の概要として伝わらない…にも関わらず、このようにしか限られた文字数の中では説明のしようがない。
 といった内容の作品です。

 著者の作品はどれも有名ですが、例えばガリレオシリーズのような作品は、どちらかと言えば、ある程度広く多くの人に受け入れられる、というか、東野さんの作品としてはライトな感覚で読める「読み流し」作品だと個人的に思っています、軽い。
 むしろ私が好む、というか、備忘録しておきたいほど強烈に傷跡みたいなモノを残してゆく作品は、先般の記事にも名を挙げた「赤い爪」などの、 二度読みたいとは思えない作品 です。本作も、その一つです。
 二度読みたくない=批評ではなく、それほどにまざまざと人間の中にある醜い部分、認めたくない「自分の一部」を垣間見るから、です(多分)。
 そのくらい、生々しい登場人物たちの心理描写や、人が避けたがる出来事に焦点を当てている作品でした。

 読もうと思ったきっかけは、先般とある通り魔殺人事件実行犯(敢えて事件名は伏せます)の弟さんが自死された報道を目にしたから。
 ネットの片隅では、いろいろな議論がなされていたようです。
 私自身も含めて、声高に持論を述べていた人には、是非「一ケース」として読むべき作品だと思いました。
 もちろん、そうでない人、というか、社会に何かしらの形で属している限り、一度は自身を、周囲を振り返るきっかけとしてとても味わいたくない想いをさせられますが、読むことで現実から目をそむけず考えるべきことがテーマにされている作品だと感じました。

 人は大なり小なり、何かしら人様に大変な迷惑を掛けた経験があるのではないでしょうか。

 一例を挙げると、とある2歳の子が、スーパーの駄菓子コーナーで食べたかったラムネ菓子をその場で未会計のまま開封して食べてしまい、お店の方に平謝りして更に数個買い足して、なんて経験がありました。
 分別の付かない時期、そしてその場で保護者である母親が止める間もないあっという間の出来事だった。それのをほかのお客さんも見ていたこと、店員さんやほかのお客さまもその子に教え諭してくれたことなど、周囲の人たちの厚意のお蔭で、それは悪いことなのだと2歳ながらに実感した男の子は泣いて「ゴメンナサイ」を繰り返したそうです。そして、その後二度と同じ過ちを繰り返しませんでした。これは幸運にもまだ2歳という分別のつかなかった時期であり、たまたま大事にいたるような大きな罪ではなかったがために、皆さんも笑って赦し、教え諭してくれたのだと思います。

 では、これが、通常「分別がついている年齢」であったなら?
 もしも商品が安価なものでなく、または罪状がもっともっと大きなことだったとしたら?

 そう考えると、いつ加害者になるか、被害者や被害者の家族になるか、はたまた、双方の関係者になるか(職場の人間、親族、友人etc)、他人事とは思えない。

 人はしばしば事件や事故を他人の身に起きた災難として報道を見るのでしょうが、私はそれが難しい。
 私は子どものころ、「まず自分には関係ない」と思っていたのに母親が生死をさまようような交通事故に見舞われたり、祖父が不遇な亡くなり方をしたり、現在も家族が要介護になったりなど、前触れもなく突然なにごとかの凶事が降りかかる、という意味では他人事として物事をみることが出来ない性分になっているので、今回この作品を読むきっかけになった某事件も、
「もし自分が○○の立場だったら、どう感じ考え、行動するのだろう」
 とかなり逡巡しました。

 その選択(答えではない、と解釈しています)の一つを、この作品の主人公、直貴が進みます。
 そして、その最後の最後で、本当にたった1行で、読者を奈落の底まで突き落とします。
 そういう、終わり方です。
 ある意味で、終わりではない物語。

 こんなにも、ジョン・レノンの『イマジン』を呪わしく脳内で再生したことはありませんでした。
 作中には、ずっと彼の歌が流れ続けている、そんな感じ。
 私はそれをとても辛辣な皮肉と受け止めていますが、読む人によってそれぞれだと思います。

 兄、剛志が強盗殺人を犯すに至るまでの心の動きも、弟、直貴のやり場のない憤りや、兄を恨んではならない、原因は自分にあるという「倫理的」「道徳的」な感覚と「自分が罪を犯したわけではないのに、なぜこんな思いをしなくてはならないのか」という剥き出しの本心との葛藤も、直貴にずっと寄り添い続ける由実子の「負けたくない」という気持ちも、だけど直貴の勤めていた会社の社長、平野の尤もな正論も、全部、解る。
 解るのに、矛盾と言うか……どれもが同時に成立し得ないという、それが何よりも辛くて、この作品も一度に読み切ることが出来ませんでした。

 文庫本、P317~P323、そして、P372~374にある平野社長の言葉
 同上、P387~389に記された、直貴から剛志への手紙に対する、というよりも、剛志が殺めた人の家族へ宛てた最後の手紙の内容(P417~418)

 その上で、この作品の、あのラスト……読了直後の今は、再読する勇気がありません。
 同時に、一度読んだだけではいけない、折を見て忘れぬよう、何度でも読まなくては日々の多忙や日常に埋没して忘れてしまいかねない、こんな大事なことなのに、と思うような深くて痛い、重い作品でした。
 思わず該当ページを記載して訴えたくなるほど、是非とも一人でも多くの方に読んでいただいて何かを感じ考えて欲しいと思わせる作品でした。

 私が最も胸に痛みを感じたのは、剛志から被害者遺族に宛てた「最後の手紙」でした。
 私はどこか、常に罰せられる側の視点に立って見てしまうところがあるようなのですが、彼の最後の手紙を読むまで、彼の最後の謝罪が何に対しての謝罪なのかを目にするまで、気付きもしませんでした。

 出所したら、命を賭けて生涯償います。
 本当に申し訳ありませんでした。
 お詫びして赦されることではないと解っているのですが。

 それらの言葉は、本当に「相手への言葉・想い」なのか?
 そんな風に感じ精いっぱいの努力をしている、という実感が持てる、自己満足に過ぎないのではないか?

 もちろん、一度ならずとも考えます、悩みます。
 でも、何もしないよりは相手がやり場のない物をこちらへ向けることができる分、わずかながらも救われるのではないか、などと悩んだ末に謝罪へ…という流れを経験したことなら、私でなくとも誰もが何度か経験していることではなかろうか、と。
(若い人はこの範疇ではないかも知れませんが)
 他人事では、ない。
 そう叩きつけて来る作品でした。

 それでも、願わくは、直貴がまた歌えるようになれば、と夢を見ていたい自分がいます。
 よく、子育ての中で「子供の中で、罰してしまうと罪を償ったとして忘れてしまう」云々みたいな話を聞いたことがあります。
 だから、悪いことをしたとき、怒鳴り散らし怒りの感情をぶつけてしまうと、それで「罰せられた」と無意識に判断してしまい、犯した罪(というほど大げさなことではないことも含まれますが)をなかったこととして忘れてしまうから、ゆっくりと教え諭し、あがなった気分にさせず、感情に刻み付けることで同じ過ちを繰り返さないのだ、とか。

 罪は、罰せられることで消えやしない。一生背負うもの。
 それは罪を犯した当人だけでなく、末代まで。

 ――と、古人が呪いの言葉のようにして言う定型文みたいなものを、改めて重く受け止めた次第。

 平野社長の説く「なぜ犯罪者の家族を不遇と感じさせるような処遇にするのか」という理由が、あまりにも残酷で、だけどあまりにも的確で息が詰まりました。
 本当に、読んでいてつらかった…けれど、読まなければよかった、と逃げたくはない、と思わせる作品でした。

追記
 イマジンの歌詞と和訳、一応リンクを張っておきます。
Imajine
ホームページ DAY OFFICEさまサイトより)