【14.04.23.】『ベンジャミン・バトン』鑑賞
あらすじ:
80歳で生まれ、若返っていく男の物語。
(「Oricon」データベースより)
原作はF・スコット・フィッツジェラルドが1920年代に書いた短編小説。
物語はベンジャミンの恋人、デイジーの人生が終わろうとしているときから始まる。
彼女は今際の際に、長女キャロラインへ「ベンジャミンの日記を読んで欲しい」と頼む。
ベンジャミンの日記を読み上げる、という場面から、彼のモノローグ調で語られる自叙伝的物語となっている。
デイジーの初恋の人、幼馴染、ベンジャミン・バトンは日記で 「私は数奇な人生のもとに生まれた」 と語り始める――。
1918年のニューオーリンズに80歳の肉体で誕生し、歳月を重ねるにつれて若返る人生の中、船上員として働きながら大海原を渡ったり、勃発した真珠湾攻撃の戦火を潜り、再び故郷の地に戻ると、デイジーとの再会、そして……。
哀しいほどに『こぼれゆく時間』『すれ違う肉体の老化・若返り化。
それを淡々と語り続ける、独りの男の物語。
【ここから感想です☆】
ネタバレ無で作品の感想を述べるのが非常に困難な作品です。
と前置きした上で…。
80歳の赤ん坊、という設定を言葉で表現するのが難しい、と今感じます。
原作の短編必読だな、と思いました。
哀しいと言えば哀しいくらい、生まれ落ちた瞬間から普通ではない人生を歩まされたベンジャミン。
老人のような見た目の姿で生まれたベンジャミンは、母親の命と引き換えにこの世に生まれた、それだけでももう充分に哀しい誕生だったのに、彼は怪物のようだと嫌悪、恐怖した父親に生まれた途端捨てられます。
敬虔なクリスチャンだった黒人夫妻に拾われて育ちますが、そこは老人施設でした。
心は子供、見た目は老人というベンジャミンにとって、そこはある意味で居心地のいい場所であり、ある意味で残酷な場所。
好奇心溢れる幼少期には、足腰が立たず要介護状態。
介護士でもある母親に十分な愛情と介護を受けて育っている場面が、私をほっとさせました。
でも、同世代の子供らとはほとんど交流できません。
人生の終わりを懐古の時間に費やす老人たちの中で、老人として認識される=年齢以上のものを求められる辛さはあったはずなのに、それらも淡々とつづられる。
そんな始まり方で、何もかもが、淡々と流れていきます。
見ていて、『フォレスト・ガンプ』を連想させる淡泊っぷりでした。
だから、余計にこちら次第で傑作にもつまらない作品とも受け取らせるかも知れません。
デイジーとはベンジャミンの住む老人施設で出会います。
10代前半のころ、施設の利用者の孫だったデイジーは、ベンジャミンが本当は子供だと見抜きます。
そこからずっとすれ違い続ける2人、初恋の自覚もないまま、何度も何度もすれ違い続けて、ベンジャミンが30代前半ごろ、デイジーが20代後半のころ辺り、ちょうどお互いがお互いに容姿脳年齢が合致したころにやっと結ばれるのですが。
「私がおばあさんになっても愛し続けられる?」
「僕が赤ん坊になっても愛し続けられる?」
デイジーは、「若返ろうと年を取ろうと、おむつをするようになってゆくことに変わりない」と言ったような意味合いのことを言うのですが、自身でひしひしと肉体と脳年齢の差が再び広がってゆくのを感じるベンジャミンは、デイジーと真逆の懸念をします。
「僕では父親になれない」
デイジーの強い希望で、不安ながらも宿した命、キャサリンが1歳を迎えるころ、ベンジャミンは家族の前から消えます。
デイジーに2人の面倒を見ることはできないだろう、と。
益してや一方は巣立っていかない赤ん坊なのだ。
非現実的な設定なのに、あまりにも生々しいリアル感があって、どんな思いでベンジャミンが自分の老後=授乳期な肉体を憂い悩みぬいて、共に年を重ねたかった願望を抑えてデイジーたちの前から姿を消したのか、と思うと、泣けてしまいました。
一度だけ、ベンジャミンはデイジーとキャサリンの前に現れます。
17歳の少年の姿で、同い年くらいの娘の成長を見たくて。
デイジーが幸せにその後を暮らしているのか確認したくて。
彼は、彼としての意識がある最後まで、デイジーの幸せを願い続け、案じ続け…とても純朴で優しくて、哀しいくらい自分の数奇な運命を受け入れている人でした。
受け入れるしかなかったから、と言って、本当に受け入れられる人はなかなかいない。
いい人で溢れ返っているのに、何もかもが哀しい物語でした。
普通に見ればもっとほかの場面もピックアップされるのでしょうが。
私にとって最もつらかった場面は、ベンジャミンが児童福祉員に保護されてからの、作品の中で割り当てられた時間としては、十数分くらいの描写部分でした。
ベンジャミンは、記憶障害で路頭に迷っているところを保護した、という言い方をされていました。
ほとんどのことを忘れていて、それは普通に肉体も年齢を重ねていれば、痴呆と呼ばれるモノ。
まず被害意識で満たされ警戒と恐怖で誰も近づけさせない。
愛した夫、ベンジャミンの面影があるのに、自分に怯える彼を見て、デイジーは「初めまして」という態度を貫く。
そして再び意思の疎通叶うのですが、それは
「自分に優しくしてくれるおばさん」であり、かつての妻としてではない、というところが哀しくて。
救いなのか、残酷なのか。
ベンジャミンは、赤ん坊の姿でデイジーに抱かれながら、最期の瞬間、すべてを思い出したようにデイジーを見上げます。
そして、赤ん坊が眠るように、ゆっくりと瞼を閉じてゆく。
それを見守るデイジーは、哀しげに笑んでいるんです。
……涙腺壊れました。
ベンジャミンが父親だと言うことを、娘キャサリンは、母親であるデイジーに日記を読んであげている中で初めて知ります。
「あのときの人が、パパだったの……?」
母娘のやり取りの中で、キャサリンに父親がベンジャミンであることは伝えていたようです。
でも、なぜ消えたのかまでは伝えていなかったのか、のちに夫となったロバートへの遠慮なのか(デイジーはロバートにもベンジャミンのことは伝えていたようです)、キャサリンに宛てたベンジャミンからのバースデーカードを読みながら涙します。
それは送られることのなかったカードで、最後のカードには
「父親でいたかった」
……涙腺修復不可能になりました。
ただただ、愛に溢れる内容で、だけどあまりにも淡々と綴られていて、それがなんとも哀しくて。
ホント、感想を書くのが難しい。
好みが分かれるのかな、この作品。
私は、「とにかく見れば解る」としか言いようがない、というのが本当のところ。
ネタバレにしかならないんですよね、語ろうとすると。
amazonのレビューがどれも素晴らしいです。
本当に自分ではこうは書けないな、と感心してしまうくらい、本作を上手にご紹介しています。
ぜひ覗いてみてくださいませ。