本と映画と日常と

自分が読んだ本、鑑賞した映画と日常の徒然を書き留める備忘録ブログです。感想記事にはネタバレもありますので、各自の判断と責任のもと閲覧くださいませ。

【19.01.04.】『わたしを離さないで』感想

 

あらすじ
自他共に認める優秀な介護人キャシー・Hは、提供者と呼ばれる人々を世話している。
キャシーが生まれ育った施設ヘールシャムの仲間も提供者だ。
共に青春の日々を送り、かたい絆で結ばれた親友のルースとトミーも彼女が介護した。
キャシーは病室のベッドに座り、あるいは病院へ車を走らせながら、施設での奇妙な日々に思いをめぐらす。
図画工作に極端に力をいれた授業、毎週の健康診断、保護官と呼ばれる教師たちの不思議な態度、そして、キャシーと愛する人々がたどった数奇で皮肉な運命に……。
彼女の回想はヘールシャムの驚くべき真実を明かしていく――英米で絶賛の嵐を巻き起こし、代表作『日の名残り』を凌駕する評されたイシグロ文学の最高到達点。解説/柴田元幸
amazon内容紹介より)

【ここから感想です】

 

著者のイシグロ氏は、「ネタバレ構わないですよ」というスタンスらしいのですが、読了した読み手としては、あらかじめそれを知ってからだと初読の衝撃が薄れる気がしてしまうので、どのように感想を書こうかと迷います。
実際、この物語の核となる「不可解な何か」は、物語の中盤で明かされるので、確かにネタバレOKと解釈する読者もいるだろうと思いましたが、私は予備知識ゼロで読み始めたからこそ、物語の中盤で「不可解な何か」が明かされた瞬間、自分の読み流しに気付き、途中でしたが最初から読み直し始めることができました。…という読み方をしました。
それを知った上で読むのと、何も知らずに読むのとでは雲泥の差がありそうな気がする作品です。

最初、「提供者」とはなんなのか、主人公のキャシーは31歳で「介護人」を12年近く勤めあげている人なので、日本人の感覚で独居老人の介護かなと思って読んでいたり、介護の対象がキャシーの同世代のようだと分かって、障碍者の介護だろうかと思ってみたり、ではなぜ介護対象を「提供者」と呼ぶのか、その説明がないなあ、と怪訝に思ったりして、ストーリーに集中できていませんでした。「ヘールシャム」というのは地名なのだろうか、とその存在の分からなさに集中ができないこともあり、とにかく読みづらさを感じていました。

作品名で検索を掛けるとネタバレが山と出てくるので、ここで隠しても意味はないのかもしれませんが、ぜひ作品から「核になる何か」を知ってほしいという個人的なエゴから敢えて隠しますが、その「核」となる主要人物たちの背負った使命や宿命を明かされた途端、それまでの淡々と紡がれてきたキャシーのありふれた日常の語りがすべて悲しみ一色に染まってしまい、さらりと読み流していた先生方の挙動不審を読み返したくなったり、無邪気な子供時代のキャシーとトミーの「考察」が、無邪気ゆえに悲しくなって読み返したときは胸が締め付けられるような痛さを感じて、初読のときとはまるで違う感覚でそのエピソードを受け止めてしまったりと、再読必須の作品でした。

「核」が分かったあとで、キャシーが赤ちゃんに見立てた枕を抱いて、お気に入りの歌を口ずさみながら踊るシーンを読むと、それを偶然見かけたマダムと同じように、涙がこぼれてしまいました。
「ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで」
この歌は、実は恋人同士の歌なのですが、キャシーは歌全体には興味がなく、このフレーズだけがとても好きで、彼女の中では赤ん坊と母親の歌と解釈されていました。
キャシーは、やっとの思いで赤ちゃんを授かったお母さんが、幸せでいっぱいながらも、いつかふとした事故で赤ちゃんを失ってしまうのではないか、引き離されてしまうのではないかという不安を抱えたがための「ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで」という歌詞だと解釈しています。
このころのキャシーは、先生たちから子どもが産めない体なのだと教えられていました。
まだすべてを知らされていない10歳のキャシーですが、どこかで自分の運命を知っていたのではないかと懐述しています。
淡々と、だから自分はこういう気持ちなのだとかいう語りは一切なく、粛々と自分の宿命を受け入れている語り口で、遠い昔をなぞるように語っていく文体が、まるで読者に「キャシーの代わりに多くのことを感じてあげて」と語り掛けてくるようで、読むほうが感情の嵐に翻弄されてしまうお話でした。
この枕とのダンスはほんの一例で、キャシーの子ども時代から続くありふれた日常の随所にそういった「違和感」が散りばめられており、語っている今のキャシーがすべてを「過去完了形」で語ることが何よりも悲しく切ない構成になっています。

この物語では、おそらく多くの人が科学技術や医療の進歩に警鐘を鳴らしていると感じる面があるかと思います。
しかし、作者にその意図があったかどうかは分かりません。
そのくらい、書き手の押し付けが一切なく、すべてを読者に委ねる作風でもありました。
また、パブリックスクールの雰囲気を感じさせるキャシー幼少期の舞台が、青春ものという一面を覗かせ、読者に「核」を気付かせない気がします。
主軸となっているのは、いじめのターゲットにされていた癇癪持ちの少年トミーと、女子の仲良しグループのボス的存在だったキャシーと同室の女の子ルースとの友情と恋の物語です。
聡明な子どもでありながらも、年齢相応の子どもらしい内心も懐述されるキャシーの子ども時代に好感を持つ一方で、よくいる普通の女の子の典型に見えるルースは、個人的に苦手なタイプの女の子でした。
負けず嫌いで狡猾なルースの性格を分かっていながらも、彼女を受け入れるキャシーの器の大きさは、彼女の個性だと好意的に受け止めながら読んでいたのですが、「核」の部分を知り始めた彼女たちは、「親」の存在を非常に意識し始める辺りから、ルースへの嫌悪感が別のものへとすり替わっていきました。
主要人物たちは、親の大半が、犯罪者など世間からレッテルを張られた存在である可能性を感じ、まことしやかに囁かれる噂に翻弄されて親探しをし始めます。
すべて彼女たちが知る由もない「上」の存在の掌の上で踊らされているだけだと読者が知るのは、読了間近です。
これまでの何もかもが徒労だったと分かった瞬間の絶望は、読む側も我がことのように感じながら、きっとそれも想像の域を出ないのだろうとも思わされます。
そして、それまでのキャシーや周囲の「仲間たち」の生活が、私たち読み手に想像しやすいくらい「普通」で「ありふれた」日常だからこそ、リアルで「実は私たちが知らないだけでは?」と不安を抱かせる一面もありました。
遠い未来に現実となる可能性はゼロじゃないんだ、と思うと恐ろしい一面を見てしまった気もします。
「人」の定義とはなんだろうかと考えさせられもする作品でした。

キャシーの知っていることを共有してから読む最後の文章で涙腺が決壊しました。
空想はそれ以上進みませんでした。わたしが進むことを禁じました。顔には涙が流れていましたが、わたしは自制し、泣きじゃくりはしませんでした。しばらく待って車に戻り、エンジンをかけて、行くべきところへ向かって出発しました。
(P439より抜粋)

世界中のどこにも逃げ場はなく、「行くべきところ」へ行くしかない宿命からも逃れられず、そこで待っているのは「提供」で、自分はそのために生まれてきて、それから逃げることは自分で自分の存在を否定することにもなり、だけど生きてきたこれまでを、自分の為にも自分を愛してくれたトミーやルースのためにも否定したくはない…いろんな葛藤があるのだろうと勝手にこちらがキャシーの心情を想像してしまい、とても苦しくなりました。

ヘールシャムが最も恵まれた施設だったからこそ、そういった情操が育まれたのだろうと思うと、残酷としか言いようがなく、直接「提供者」と接してきた先生方の心が蝕まれていくのも容易に想像がつき、「核」の部分について、どうしても否定的にならざるを得なくなりました。
元々、「核」の部分については、あまり肯定的に考えたことはないのですが(そも定められた天寿を人間の科学技術で覆そうなんて傲慢ではないかと思ってしまう人間なので)、嫌悪感が芽生えるほど、犠牲という言葉が頭の中で乱舞しました。
直接接しない人ほど残酷になれると思ってしまいます。
その命を救うために、道具として扱っていいのだろうか、とか、いろいろと…。
また、本作で「提供者」について適合に関することが一切触れていないので、私はさらに想像を膨らませてしまい、トミーやルースが命懸けで提供した挙句、もし適合しなかったら彼らは無駄死にになるということか…と、そう思うと、「提供される側」には「提供者」の暮らしぶりや人となりを知る義務があると憤り混じりに強く思いました。
他者を踏み台にしてまで生きのびる価値が自分にあるかと自問した上で提供を受けるべきではないか?
自分を含めて、自分の価値についても考えてしまうお話でした。
キャシーには、幸せになってほしかったなあ、と…。

この作品は映像化もされていて、日本でもドラマ化されていると後で知り、レビューなども覗いてみたのですが、重い話を敬遠する傾向にある現在でも賞賛の嵐でした。
ドラマは観たいと思えていない現在ですが(オリジナルの脚色もあるらしいので)、原作に忠実らしい映画版は観てみたいなと思います。