本と映画と日常と

自分が読んだ本、鑑賞した映画と日常の徒然を書き留める備忘録ブログです。感想記事にはネタバレもありますので、各自の判断と責任のもと閲覧くださいませ。

【18.05.30.】『友罪』鑑賞

 

友罪 [Blu-ray]

友罪 [Blu-ray]

  • 発売日: 2018/11/02
  • メディア: Blu-ray
 

 『友罪』本予告

あらすじ:
17年前─許されない罪を犯した男と、癒えることのない傷を抱えた男。
今、ふたりの過去と現在が交錯し、あの日から止まっていた時計が動き出す─。

何人もの人生を決定的に変えた“事件”は、ふたりの男の出会いから始まった─。
ある町工場で働き始めた、元週刊誌ジャーナリストの益田と、他人との交流を頑なに避ける鈴木。
共通点は何もなかったふたりだが、同じ寮で暮らすうちに、少しずつ友情を育ててゆく。
そんななか彼らが住む町の近くで児童殺人事件が起こり、SNSで17年前に日本中を震撼させた凶悪事件との類似性が指摘される。
当時14歳だった犯人の少年Aはすでに出所していて、今度も彼の犯行ではないかというのだ。
ネットに拡散していた少年Aの写真を見た益田は愕然とする。
そこにはまだ幼さの残る鈴木が写っていた。
驚きと疑問に突き動かされ、調査を始める益田。
それは、17年前に自ら犯した“ある罪”と向き合うことでもあった。
一度は人生を捨てたふたりの過去と現在が交錯し、止まっていた時計が激しく動き始める─。
それはまた、ふたりに関わる人々の人生も大きく動かすことになる─。
映画『友罪』公式サイト・Introductionより)

【ここからネタバレ感想です】

 

公開5日後ですが、無事パンフレットも入手、自分の前には誰も座ることなくダイレクトにスクリーン真正面、という、ここ数年で最高に恵まれた環境に恵まれた鑑賞と相成りました。

原作を先に読んでからの鑑賞です。
(原作の感想記事はコチラ
また、映像では美代子と山内が益田や鈴木の勤務する町工場の社員ではないという設定変更があります。
予告PVを見て、かなり脚色されていると推察されたので、少しだけ残念に感じる部分があるのかもしれない、ということを念頭に置いていたのですが。
原作をとても丁寧且つストレートな表現で、エピソードが追加・変更されており、原作へのリスペクトに溢れる作品になっておりました。

キャラクターの設定変更箇所としては
1)鈴木の更生時代の教官・弥生の子供が「息子」ではなく「娘」
2)山内の職業をタクシードライバーに変更
3)山内の解散した家族の生き様と、山内一家の補強=詳細追加
4)美代子はテレオペ業務&クレーム対応
これらの変更に伴い、町工場の社長とその奥さんと美代子とのやり取り=いわゆる「普通の反応・対応」を描写していた原作のエピソードがごっそりなくなっています。
その分、益田の元恋人、清美の「普通の反応・対応」が際立っていました。

以下、変更点についての感想など。

1)弥生の子供を息子から娘へ変更した点
これは、原作で息子が恋人に堕胎させるというエピソードから
・命の重さ、尊さ
・我が子に対する愛情や掛け替えのなさ
などをひしひしと感じさせるエピソードだった部分が、娘に変更したことにより、母vs息子で展開されたそれよりも、子を産む「女性」として理屈を越えた弥生(母)と娘の共鳴を感じさせるエピソードに変わったことで、感極まってしまいました(苦笑)
「娘」=女性だからこそ、
「私も子供を殺したんだよね。これでやっとあの凶悪殺人犯と同じになったんだ」
という言葉に内包された「弥生の子供」であり「女性」であり、ほんのひとときでも「母親」にもなった娘の気持ちに触れた気がしました。
その言葉で思わず娘を叩いてしまう弥生、直後、はっとして「ごめんなさい」と呻くように呟く富田靖子さんの演技は、演技とは思えませんでした。
叩いたこと以上に、娘に流産を「子供殺し」「猟奇殺人犯と同じ」と思わせてしまうようなことに対する「ごめんなさい」と感じました。
弥生は、母親としての過失を悔やんでも悔やみ切れない想いで傷ついた娘を抱きしめたのだと思いました。
とてもとても重い「ごめんなさい」という6つの音でした。

2)山内の職業変更
3)山内の家族のエピソード追加
私は、大きく変更・追加された山内家族に起きた出来事と、最終的に山内がどういう選択をしたのか、という部分に、一番大きく感情を持っていかれました。
以下、露骨なネタバレになるので白文字にします。
自動車事故で子供3人の命を奪った息子とその両親が、家族をしていていいはずがない、と一家を解散した山内。
ですが、山内の妻の父が亡くなり、妻の母は認知症、妻の弟夫妻が親の介護を一手に引き受けている、という追加設定。
義弟は山内に
「介護も大変なんだ」
「あんたは家族を解散することで償っているつもりだろうが逃げているだけだ」
「頭を下げることに慣れてしまっているだけんだよ。あんたのやっていることはおかしいよ」
「こういうとき(償いや両親の介護のことを解釈しました)こそ家族で助け合うものなんじゃないか」
とそしります。
また、息子が結婚をしたい、相手のお腹には子供がいる、という事実を知らされ、山内は激怒します。

山内:
人さまの家族を奪ったおまえが家庭を作ってどうする
父親になったとき自分がどう感じると思っている。
おまえは生まれた子に、子供を3人殺したと言えるのか。

それに対し、山内の息子の婚約者が訴えるように尋ねます。

愛(山内の息子の婚約者):
罪を犯したら、幸せになっちゃいけないんですか。
一生不幸でいないといけないんですか。
周りの人は、一生不幸な姿を見続けていかなくちゃいけないんですか。

私はここで、山内に共感し(たつもりで)
「当たり前だ、幸せを感じたら感じた分だけ、罪悪感も増していって結局幸せになんかなれない」
「未だに被害者の遺族の傷が癒えなくて不幸なのに、自分たちが幸せを感じていいはずがないだろう」
と、山内の息子夫婦の赦されたいというエゴに不快感を覚えました。
でも、ラストシーンで、山内は信号待ちのとき、集団で登園する幼稚園児たちを見て、まばゆげに目を細めるのです。
情けないことに、私はパンフレットで山内を演じた佐藤浩市さんのインタビューを読むまで、山内がなぜここで憧憬(と感じました)の表情を浮かべたのか解りませんでした。

佐藤浩市さん:
(子供を殺した息子に)子供ができたということが、対外的にどうなのか。
そのことだけを彼(山内)は息子に言うけれど。
子が新しい生命を享受して生きていく。
それを喜ばない親なんていないわけですよ。

佐藤さんは「山内のこういう気持ちを表現した」という明確な答えを出さずに「(この作品を見た人に)判断していただきたい」とインタビューを締め括っています。
そして、パンフレットに載っている各業界の方(精神医療関係、評論、ライターさんなど)のコラムやレビューも合わせ読んだら、自分の不寛容さ、狭量さを思い知らされた気分になりました。
山内が息子に
「子供はどうした」
と尋ね、息子が電話口の向こうで泣きながら
「まだいる。愛のお腹の中ですくすく育ってる」
「これからは、家族と一緒に被害者とその遺族に償っていく」
「父さんはもう俺のことを忘れてくれ。俺も父さんのことを忘れる」
と答えます。
それに対して山内は、何とも言えない表情と声で
「そうか」
と言って電話を切ります。
その何とも言えない表情と声は、私に「なんで!?」と思わせるもの=許すような感じだったのですが…。
山内は、いつか家族がまた一緒に過ごせるようになると信じていた、と妻に激昂していました。
だけど、結果的には息子に「忘れてくれ」「俺も父さんのことを忘れる」と言われてしまいました。
(=家族は解散したまま)
精神科医で評論家の斎藤環先生は、パンフレットのコラムの中で、
「山内の中に息子を羨む気持ちがあったとは言えないだろうか」
と、1つの可能性をコラムで述べておられ、
「自分の償いの在りようを息子に押し付けることはエゴではないか」
「頭を下げて詫びることが本当に形骸化していないと言い切れるのか」
といったような問題提起をしていらっしゃいました。
問題提起をされたのは、もちろん鑑賞者です。(多分)

その上で、自分が山内の立場のとき、まだ被害者遺族が自分を立て直すこともできず、やり場のない気持ちを自分にぶつけてくる状況下で、どう受け止め考えるだろうか、と自分なりに思い巡らせたでのすが、いまだ答えが見つかりません。
原作を読んだときからずっと、ふと思い出しては考えているのですが、確固たる答えが出せない難題です。
考えることそのものが大事なのか、結局当事者になっていないゆるさから、そんな悠長に悩んでいられるのか─などなど、考えるほどに悶絶してしまいます。


ネタバレ・ここまで

ここにかなりの文字数を割いてしまうくらいには、原作から汲み取れない読者(私のことです。汗)にも考えるきっかけをくれる、映像による補強部分でした。

4)美代子が同僚ではない設定変更について
原作を読んだとき、鈴木と同僚である設定でない限り、人との関わりを避けたい2人が接触する尤もな状況や理由なんてないだろうと思っていたので、予告PVを観たときは、この部分に一番違和感を覚える内容に変わっているのだろうな、と考えていました。
でも、全然そんなことありませんでした。
もっと(いい意味で)シンプルに、より2人の根底にある「孤独」に焦点を当てた出会い方で、美代子の端折られた過去語りの部分が、原作ではあまり意識できなかった彼女の罪(自分で考えず周囲に流されて被害にばかり遭っている部分+埼玉で起きた子供の連続殺人事件の犯人が鈴木ではないかと疑ったことだと私は解釈しています)にクローズアップされており、鈴木を疑ったことで彼女は初めて自分が状況に流されている自分を認識して引っ越すという選択をした、という話の流れになっていたのは、明るいひと筋が差し込んだようなエンディングだったと思いました。
原作の美代子は、鈴木に恋をしたことで自我を持つことができ、強い一面を見せて益田を怯ませるほどの女性になりましたが、映画では読解力が乏しい私にも解りやすい美代子のキャラクターになっていました。

メインの益田&鈴木以外の主要人物の話でかなり書き殴ってしまいました…。
この2人にまつわる変更点と言えば、大きなものはなかったです。

1)鈴木と弥生の過去話はカット
 (弥生の現在の状況から鈴木とも同様だったのだろうと推察できる脚本)
2)益田のトラウマとなっている学の母親が病死

1)で弥生が今受け持っている少年とのやり取り
院内でいじめを受けている少年が、耐え兼ねていじめの首謀者の首に刃物を突き立てようとしているところへ、弥生が必死の形相で
「いなくなっちゃう、ってことなんだよ!」
と訴えるシーンがあります。
詳細は実際に作品を鑑賞していただけたらと思いますが、私は弥生の訴えがものすごく綺麗ごとに聞こえてしまいました。
原作者である薬丸岳氏、そして映画化に当たってクランクイン直前まで脚本を何度も改稿していた瀬々監督のメッセージ(というか問い掛けというか願いというか…)を、きちんと汲み取れていない自分に気付かされて、かなり自己嫌悪しました…。
自分の不寛容さに猛省したものの、この作品にこめられている「願い」を叶える1人には到底なれそうにない、というのが今の自分です。
だから、そういう自分こそが、作品を通じて何度も何度も思い返しては考え続け、「他人事として断罪する驕り」を自分から排除する努力を怠ってはいけないと自身を振り返らせる作品とも言えます。

それと、原作を読んだときに、私も類にもれず、鈴木の犯した殺人事件と、世界中を震撼させた実際の事件とを結びつけて連想してしまいました。
そして、「これほど凶悪な事件を起こした人間が、友達(益田)の何気なく言った一言なんかでそうそう変われるはずがない。だって、実例があるじゃないか」と思ってしまったのですが、生田斗真さん演じる益田、そして瑛太さん演じる鈴木の「生きた人間」から見え隠れする所作・表情・口調etcによって、ようやくこの作品は、薬丸さんの「願い」であり「希望」であり、実社会における「可能性」の1つであり、本当は誰もが願う形なのかもしれない、と理解しました。

とにかく瑛太さんの鈴木という人間の作りがすごかったです。
原作では一切彼の視点がないのに、鈴木という人間がそこにいました。
そして、その圧倒的なパーソナリティの作りに食われない勢いで、生田さんもまた益田を1人の生きた人間としてリアルに表現しており、夜の公園でのシーンと、鈴木の記事が週刊誌に載った際の2人の短くも言外の想いが伝わり合うシーン、ラストにそれぞれが自分の罪と向き合うために向かった場所でのシーンは、
「もし自分が罪を償う立場になったとき、ここまで真摯に自分の犯した罪と向き合い、背負っていく覚悟ができるだろうか」
と、怖くなりました。

昨今、何かと世間が騒がしいです。
ネットでニュース関係を見ていると、糾弾の声が大きく、それは当然の感情であり正論でもあると思うので、否定する気持ちも間違っているとジャッジする気持ちもありませんが。
どこか「他人事」として俯瞰して物事をみているのではないか、「そんなことはない」ときっぱり言い切れるか、と、自分に不安を覚える心境になる作品でした。
手軽に正義感を味わえて、事件や事故を自分の中で勝手にエンタメ化させて次々と消費しているのではないか、という醜い自分になっているんじゃないかという不安です。
不寛容という言葉が散見されるようになって久しいこの頃ですが、だからこそ、この作品を多くの人に観ていただけたらいいな、と思わずにはいられませんでした。

「隣にいる人がもし○○だったら」
「もし自分が〇○の立場だったら」
常に、この質問を自分に投げ掛けていこうと思わせる作品でした。