本と映画と日常と

自分が読んだ本、鑑賞した映画と日常の徒然を書き留める備忘録ブログです。感想記事にはネタバレもありますので、各自の判断と責任のもと閲覧くださいませ。

【18.03.01.】『そして父になる』鑑賞

 


映画『そして父になる』予告編

あらすじ:
学歴、仕事、家庭。自分の能力で全てを手にいれ、自分は人生の勝ち組だと信じて疑っていなかった野々宮良多。
ある日病院からの連絡で、6年間育てた息子は病院内で取り違えられた他人の夫婦の子供だったことが判明する。
血か、愛した時間か―突き付けられる究極の選択を迫られる二つの家族。
今この時代に、愛、絆、家族とは何かを問う、感動のドラマ。
amazon商品の説明より)

【ここからネタバレ感想です】

 

劇場公開前にこの予告編を見て「絶対観る!」と決めただけで観れずじまいにいた作品でした。

この記事を書くに当たって、久し振りに予告動画を観たのですが、印象がかなり変わりました…と今気が付きました。

予告で語られる登場人物の言葉一つ一つが、鑑賞後だと物語の流れを思い出させて涙腺が緩みます。
福山くん演じる野々宮良多が、リリー・フランキーさん演じる斎木さんが、それぞれの奥さんたちが、どんな思いで絞り出すようにそれを発したかが分かってしまうと、勝手に涙腺が緩みます…。

野々宮は、あらすじの紹介にあるとおり、一流企業に勤めて大きなプロジェクトを任されるほど優秀な人間で、職場恋愛で貞淑を絵に描いたような女性を妻にし、息子の慶多にはお受験をさせて競争社会の中で勝ち組になることこそが幸せに生きていく道だと信じて疑っていなかった父親です。
そんな野々宮は、父の離婚と再婚により、継母(風吹ジュンさんの名演にも泣かされました!)を未だに名前で呼ぶような人です。
とても保守的で、競争心に乏しい我が子を頼りなく思っています。
でも、それはおっとりとした妻譲りの気性だと思っている節があり、慶多を生んだ病院から連絡が来るまで取り違えなんて疑ったこともありません。
知らせを受けた野々宮が妻に(というより思わず呟いた独り言ですが)、
「そういうことだったのか」
と発言します。
これを聞いたとき、私の中の母親としての部分が「は?何が?」と、この辺りから野々宮に対する不快感が増していきました。

一方、子供を取り換えられてしまったもう一つの家族、斎木家のご主人は、個人経営で電気屋さんを営んでいる人で、女房に尻を敷かれた情けない父親として描かれた冒頭でした。
取り違えの報告を受けて顔合わせをしたときに初登場するのですが、遅刻した理由を、出掛けにあれやこれやしていた奥さんのせいにしたり、金に穢い物言いをしたり、第一印象があまりよくない描かれ方でした。
中盤で何度か、子供同士をそれぞれの親に馴染ませるために会うのですが、斎木さんはその都度、病院の名前で領収証を切るんですね。
それを見た野々宮が眉を顰める。
その辺りには野々宮に共感を覚えたのですが、物語が進むにつれて、人間として完全ではないそういった部分が些末に感じられるほど、根本的に野々宮のほうが父親として欠如している部分が多過ぎると感じさせる後半です。

強烈な印象になったシーンを挙げるときりがないのですが、その中の一つで、斎木が野々宮に
「父親と遊んだことがないんですか?」
「子供と遊んであげましょうよ」
とアドバイスをするシーン。
野々宮は「なんで電気屋なんか(負け組のヤツなんかに、という気持ちだったのだと思います)そんなことを言われなくちゃならないんだ」と妻に愚痴るのですが、野々宮は斎木のそれに対して、
「自分でないとできない仕事なんですよ」
と言い返します。
そこで斎木が腹立たしげに
「父親だって代わりがきかないでしょう!」
とやや激昂して言うのです。
いつも低姿勢でへらへらとしていた斎木が、初めて素を見せた瞬間でした。
このシーンで私は「父親としての在りよう」で一気に斎木のほうへ好感が偏りました。

母親同士は、直に子供たちを育ててきたので、父親以上に(と比べるのもおかしいのでしょうけれど)葛藤があると思います。
「どうして気付けなかったのか。母親なのに。自分が生んだ子なのに」
「血を分けた子を可愛く思ってしまう。それは6年間息子でいてくれた子への裏切りのように感じてしまう」
それぞれの奥さんは、母親としてまったくキャラクターが違い、ある面では正反対ですらあるのですが…愛情の度合いは比較のしようがないほど、深い。
そしてそれをお互いに感じているからこそ、仲良くなれて、相談もし合えて、悩みや葛藤や苦しみを共有していたのだろうと感じられる母親同士のやり取りでした。
もうこの辺りは涙が止まらなくてどうしようかと思うくらい痛かったです。

そして、取り違えられたそれぞれの家の子供たち。
おおらかでのびのびと育ち、弟妹もいた斎木琉晴は、なぜ仲良くなった慶多の両親を「パパ」「ママ」と呼ばなくてはならないのか、納得できなくて呼びません。
琉晴「なんで?」
野々宮「なんででも」
琉晴「なんででもって…なんで?」
野々宮「……なんでだろうな」
琉晴「…なんで?」
野々宮「よし、わかった。じゃあ、琉晴のパパとママはパパとママ。おじさんとおばさんのことは、お父さんとお母さんって呼ぼう」

慶多は、斎木家でそういった疑問を一切口にしません。
パパ(野々宮)から
「これはミッションだ」
「10年経ったら、慶多にもこのミッションがどうして必要だったか分かる」
と言われたので、ミッションを完遂することで精いっぱいです。
パパに褒めてほしいから。
今まで、褒めてもらったことがないから。
できて当たり前の立派なお父さんに認めてほしいから。
そんな慶多がぽつんと誰もいない電気屋のお店の扉の前で座っているのを、斎木の妻が見つけます。
斎木妻「どうした?」
慶多「…」(黙って首を横に振る)
斎木妻「慶多はあ…どこか、壊れちゃったのかな?」
慶多「…」
斎木妻「よーし、じゃあ、おばさんが慶多を修理してあげよう」
斎木妻は自分を母と呼べとは命じず、おばさんと自称し、慶多の気持ちにひたすら寄り添い、修理と称してくすぐって慶多を笑わせます。

そのあとで、野々宮家で琉晴に真実の一部を伝えるシーンがあり、斎木家でのそれはありませんでしたが、おそらく同じように語らざるを得ない場面があったと思います。

琉晴は、育ての親を思慕する気持ちを捨てられず、だけど自分を我が子として大事にしてくれている実の両親の思いも分かる、斎木夫妻によく似た優しい子でした。
琉晴「ごめんなさい」
パパとママのところへ帰りたいか、と訊ねた野々宮に、琉晴はそう答えて泣き顔を両手で覆って隠します。

慶多は、迎えに来た野々宮の両親から逃げます。
野々宮はひたすら慶多と一定の距離を保ったまま追い駆け続けます。
野々宮「パパは、出来が悪いけど、慶多のパパなんだよ」
慶多「パパはパパじゃない」
それは、初めての反抗で、初めての自己主張で、そして初めて親子としてありのままの自分を父親に晒した瞬間だったと思います。

2人の子供が、まったく知らない人間の悪意(病院の看護師が幸せな家庭をねたんで意図的に子供を取り換えたのでした)によって、まだ6歳なのに人生を狂わされ、心に深い傷を負っていた、という事実を鑑賞者に生々しく突き付けてくる瞬間でもありました。
子供は、大人が考えている以上にいろんなことを見抜いて感じて分かっている。
そういうことを思い出させるシーンでもありました。

我が身に置き換えて考えずにはいられない作品でした。
もし、自分が子供を取り換えられていたら。
もし、自分と血の繋がらない子だとしたら。
もし、自分の両親が実の両親ではなかったら。
簡単に答えは出せませんでしたし、今もその答えは出ていません。
いつか必ず事実を知るときが来るので、純粋な子供のうちはさておき、育て方によっては、琉晴の立場なら、
「本当の親は金持ちの家だったのに、この家の子として育ったせいでいい大学へいけなかった」
と思うかもしれない。
(野々宮の血に拘る理由が彼の父親に起因しているので)
慶多の立場であれば、有名な一貫校を卒業してエリートコースを邁進し、高給取りで裕福な暮らしはできるけれど、常に同僚から蹴落とされることに怯えながら過ごす日々が苦痛にしか感じられず、
「本当はもっと家族と過ごせるゆったりとした生活でもいい家の子だったのに」
と、育ての親の厳しい教育を恨むかもしれません。
ずっと交流を続けて、両家の子として育てば、と考えてみたのですが、後々結婚してそれぞれに配偶者ができれば、今度は相続関係で仲良し両家という在りようが崩れる可能性が出て来そう…と、いろいろ、本当にいろいろ考えてしまって、何が「ベスト」なのか分からない状態です。
作品の主題はそこじゃないのですが。笑

是枝監督の作品は好みの作品が多いので、何か刺さるだろうと予想はしていましたが、予想以上のものでした…。

作品を振り返って、改めて『そして父になる』というタイトルの重さを感じます。
父になるには、血だけではないと思わせる作品でした。
だけど、血なんて関係ないとも断言できない作品でした。
そして、
『親は、子に親育てをしてもらっている』
と、しみじみ感じさせる作品でもありました。