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自分が読んだ本、鑑賞した映画と日常の徒然を書き留める備忘録ブログです。感想記事にはネタバレもありますので、各自の判断と責任のもと閲覧くださいませ。

【19.04.20.】『木曜日の子ども』感想

 

木曜日の子ども

木曜日の子ども

  • 作者:重松 清
  • 発売日: 2019/01/31
  • メディア: 単行本
あらすじ:
きみたちは、世界の終わりを見たくはないか――?」 震撼の黙示録!

「世界はこんなに弱くてもろくて、滅ぼすなんて簡単なんだってことを……ウエダサマが教えてくれたんですよ」

7年前、旭ヶ丘の中学校で起きた、クラスメイト9人の無差別毒殺事件。
結婚を機にその地に越してきた私は、妻の連れ子である14歳の晴彦との距離をつかみかねていた。
前の学校でひどいいじめに遭っていた晴彦は、毒殺事件の犯人・上田祐太郎と面影が似ているらしい。
この夏、上田は社会に復帰し、ひそかに噂が流れる――世界の終わりを見せるために、ウエダサマが降臨した。
やがて旭ヶ丘に相次ぐ、不審者情報、飼い犬の変死、学校への脅迫状。
一方、晴彦は「友だちができたんだ」と笑う。信じたい。けれど、確かめるのが怖い。
そして再び、「事件」は起きた――。
amazon.co.jp「内容紹介」より)

 

【ここから感想です】

 

感想記事の日付でupしましたが、読了日は記事タイトルの通りです。
すぐに感想を書けるような内容ではなく(ものすごく考えさせられたので)、時間を置いてから書こうと思ったんですが、結局すぐに答えが出るものではないなあ、と痛感したので、記事上げちゃいました。

冒頭は、7年前に起きた14歳の少年によるクラスメート9人の殺害事件を主人公が「報道から得た情報」として語られるところから始まります。
当時の主人公、清水は30代の独身で、一生結婚することもなく終わるのだろうと思っていたことや、少年犯罪を遠くのどこかの出来事として傍観者の立場で見ていたことが懐述されます。

7年後、清水は自分が結婚するとも、14歳の息子が突然できることも、当時は思ってもみなかったことを語り、自分の14歳のころを思い返したり、当時は息子として父とどう関わっていたのかを振り返りながら、侭息子の晴彦と、いつか本当の家族になろうと四苦八苦する姿が描かれます。

重松作品は、私の中で「家族」特に「父子」の関係にスポットを当てた作品が多い、という印象があります。
本作も主軸はやはり父と子の物語ではありますが、そこに絡めた「毒殺事件」がかなり衝撃的で、清水の視点で語られるなかのあちこちに、14歳という思春期特有のあれやこれや(詳細は是非本文でご確認ください)から、今の思春期の閉塞感が感じられ、私は清水と同世代であり親でもあるので、彼に共感する点が多々あり、身につまされる思いで読み終えた物語でした。

自分たちの思春期のとき感じた「大人には分かりっこない」という感情が、私たちの世代だと「憤り」や「反発」だったのですが(多分)、今の思春期の子たちのそれは「絶望」や「諦観」など、抗うという概念がないくらいに両極端というか…想像はできても理解が追い付かない、という困惑やじれったさ、表層にあるそれらのもっと奥深くには、やっぱり「否定」という、犯行程でないものの受け入れたくない気持ちもあったりするのだろうなあ、という想像など、考えさせられてしまう場面が多々ありました。
時には、再び毒殺事件を起こした高木や上田を調べていた沢井のように、大人のほうが彼らの持論に引きずり込まれてしまうかもしれない…と思わされるやり取りなどもあり、今一度当然のこととして深く考えたことのない「正しいこと」について、自分なりの揺らがない根拠があるだろうかと考え直すくらいには揺らぐ犯人たちの言葉が散りばめられていました。

例えば。

なぜ自殺を否定するのか。
誰だって死にたいはずがない、ただ、終わらせたいだけ。
「終わらせる」というものの対価として「命」をベットすることの何がいけないのか。
それほどに生きることが過酷なのに、理解した気分で、それが正しいと信じて「自殺はダメ」というのは、何もわかっていないということではないか?

また例えば。

自分1人が死んだところで、世界は何も変わらない。それほどに世界は強固で揺るがないもの。
本当に?
世界なんて、1人の人間にとっては、実は自分を取り巻く環境だけでしかない。
世界を終わらせるのなら、自分か自分を取り巻く環境を壊せば、それで「自分の」世界は簡単に壊れる。

または、彼らを取材することで感化された(または実は根底に同質のものを持っていた)沢井の言葉。

人は、理解できないことが怖い。
だから知ろうとする、知りたがる、「こうである」と決めつけて安心したがる。
でも、調べて1つ知れば、別の知らないことが見つかって怖くなる、不安になる。
突き詰めていくと、一番肝心なところが分からないまま。
凶悪犯罪が起きると「動機」を知りたがる、それは、何が動機かを知ることで安心したいからだ。
その動機に当てはまらないようにすれば、回避できると信じているから。
でも、人が他者を完全に理解することなどは不可能である。

これらを「違う」と論破できない自分がいて、読書中はものすごい憂鬱な気分になりました。
清水は、これをどう自分の中で折り合いをつけて晴彦を「こちら側」へ取り戻すのだろうか、と自分が彼の立場ならということを考えながら読み進めていました。

まだ読了した人のレビュー記事を読んでいないのですが、私の感想は、
「うーん…力技…;」
という感じで、自分が読解力不足なのかな、という不安もある読後感でした。
主軸は父と子なので致し方ない部分かもしれませんが、上田や高木は救われないままなのか、とか、誰が警察を呼んだんだろう、という気掛かりもあるラストで、うーん…。
ただ、その釈然としない、綺麗ではない終わり方だからこそ、生々しさやリアリティがあるとも思いました。
そう簡単に答えなんか出ないなあ、と思います。

また、別の角度から見た感想の中に、清水たちが引っ越してきた7年前に毒殺事件があったという新興住宅地の「絵にかいたような理想的な街」の不気味さと、今の若い世代の人たちの多くが親世代から強いられているかもしれない「完璧な子ども」像の異質さに、妙な符合を感じさせる描写が多々ありました。
「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋ひしき」
という狂歌ではありませんが、清濁併せ呑むことで人は成長するのだろうし、併せ呑むためには清濁共に存在していなければ叶わないわけで。
悪とされるものを「自分で感じ取って」善悪を定めるのと、「これは悪いこと」と概念を叩きこまれるのとでは、心の成長加減に大きな差が出ると感じてしまいます。
この街には、そういう異質さがある描写でした。
過去の事件で忌避される場所として有名になってしまった一方で、思春期の子らには、1人で9人も殺した上田を「ウエダサマ」とあがめる者もいる。
世間一般的に常識とされている規範を敢えて踏みにじることで自分の存在を確認するような一面があるのは、だれしも思い当たる節があると思うのですが、その外れっぷりが今はおおごとになるケースが多い、またはネットなどの普及で認知度が昔より上がっている。
小さな「悪」を徹底的に潰され型にはめられるので、外れようとするとおおごとになる。
というのを、具体例として出されたのが、この毒殺事件だったのでは、と思ってしまいます。
最後の最後で、上田が20歳過ぎた成人になっているのに、思春期の少年のように駄々をこねるから、そんなふうに感じたのかもしれません。

大人が、自分の考えに今一度「それは自分自身で得た確固たる概念なのか」「深く考えずに、それが常識だからと鵜呑みにしているだけなのか」を考えるために読むのもアリかな、と思うお話でした。
よく子どもに問われる
「どうして人を殺してはいけないのか」
「どうして自殺はいけないのか」
に、自分の言葉で答えられるか、というのを考えさせられるお話でした。
「親などの家族や友達が悲しむから」
ぶっちゃけ、自殺したいほど追い詰められている人に、他者の気持ちを考えろと言わんばかりのこの言葉は、暴言でしかないですよね。^^;
「殺人なんて、親兄弟にまで迷惑を掛けることだ、相手の家族や友達が悲しむ」
だから他者の気持ちを考える余裕ないんですってば、と突っ込みたくなる「殺してはいけない理由」ですよね。^^;
「あなたの〇〇のため」なんて、無理解だと再認識させるだけの言葉だと思います。
では、何が琴線に触れるのか、その答えの1つが、晴彦に取った清水の行動だと思いました。
ただでも、私はそれじゃないな、という感想だったので、自分の軸はどこにあるのだろう、と考え続けていきたいと思います。
…などと、襟を正す気持ちにさせられる内容でした。