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自分が読んだ本、鑑賞した映画と日常の徒然を書き留める備忘録ブログです。感想記事にはネタバレもありますので、各自の判断と責任のもと閲覧くださいませ。

【20.04.27.】『検察側の罪人』鑑賞

 

検察側の罪人 Blu-ray 豪華版

検察側の罪人 Blu-ray 豪華版

  • 発売日: 2019/02/20
  • メディア: Blu-ray
あらすじ:
一線を、越える。
犯人未明の殺人事件。
対立する二人の検事。
正しいのは、どちらの正義か――

 

【ここからネタバレ感想です】

 

社会派作品(と言えばいいのか?)を読んでいると、
・政治家や警察は合法やくざな一面も持っている
・弁護士や検察は正義を基準に裁判で論じているわけではない
という辺りが大前提にあって当たり前の世の中、と感じさせるわけですが、この作品も類に漏れず、という内容の作品です。

木村拓哉さんが演じる最上と、二宮和也さん演じる沖野の「正義」のぶつかり合いは、観る者にも「正義とはなんぞや」と考えさせられる、最も印象深いシーンでした。

ここで事件概要の部分をネタバレしてしまいます。(と、前置き)

都内で老夫婦殺人事件が起き、数人上がった被疑者のうち、松倉と弓岡まで絞られていきます。
2人の被疑者のうち、松倉は過去に2度殺人を犯しています。
初犯のときは未成年だったため、5年で出所。一緒に罪を犯した兄は自殺しています。
再犯のときは証拠不十分で不起訴処分。限りなく黒に近いグレーだったため、「疑わしきは罰せず」という司法の大原則に則り、罪に問われることはありませんでした。
この2度目の殺人の被害者が、最上が当時世話になっていた寮の娘さんで、最上が妹のようにかわいがっていた存在でした。
そして2度目の殺人事件の時効を迎えた2年後に、殺人事件の時効が撤廃されました。
どんなに最上が松倉に罪をあがなわせたくても、もう二度と償わせることができないんです。
また松倉が罪を犯さない限り、償わせることができない、という状況がベースにあります。

最上の正義は、「罪を犯した人間は罰を受けて罪をあがなうべき」です。
沖野もそれは同じです。

何が最上と沖野を分かったのか、と言えば、「何に対する罪か」という部分。

松倉は2度目の事件について罪をつぐなっていない。最上はそれが赦せない。
沖野は松倉よりも弓岡のほうが被疑者である可能性が高いと考えていて、それは今回起きた老夫婦殺害事件を追っている中で得た情報から導き出した「判断」です。
最上は時効になってしまったがために、自分の大切な人を奪われたのにその罪をあがなっていない松倉を今回の事件の犯人として死刑台に送りたい、という「執念」です。

この作品の冒頭で、最上が沖野を含む研修生たちに告げた言葉があります。
「弁護人は必ずアナザーストーリーを作ってくる。それを排除できるのは、事件の真相を解明したいと言う強い気持ちだ」
これは、最上の「今の君たちでは悪人の面を叩き割ることもできないだろう。そんな君たちの武器になるのはなんだ」という質問に答えた沖野の
「動的事実認定力、言い換えれば独自の捜査を主導でできる力であり、事件のイメージを想像する発想力です」
の言葉を受けてのメッセージです。
動的事実認定力とは、後続する証拠や証言などから、これまでの捜査で得た推論や方針を覆す事態になっても、それまでの推論に執着せずに事件解決を最優先にした柔軟な思考をすることを言いたいのだと思います。
最上のこの言葉で、沖野は彼に憧憬や尊敬の念を抱いたのだと思います。
そんな最上自身が過去の罪に囚われ、自身の動的事実認定に(分かれるほど優秀なのに)目をつむり、自分の思い描いたストーリーを司法に正しいと思わせるために画策している、ということが、尊敬していたからこそ赦せなかった面もあるのだろうと思いました。

原作を読んでいないので、どこまで脚本が変えられているのか分かりませんが、2つ(+1)の事件の犯人は、どちらも最上・沖野ともに納得のいかないであろう形で終幕します。
最上と沖野の立ち位置も、後味の悪い終わり方です。
それぞれの事件の犯人である松倉や弓岡に同情は皆無なのですが、どちらの事件後の犯人も、心の在りようが許しがたいからこそ、1mmも被害者のような位置付けていてほしくないのに、という無念さが残る終幕の形でした。
その結果を招いたのは最上であり、彼の心情は分からないでもないけれど、納得のいかないものでした。

何よりも最上に失望したのは、袂を分かった沖野を自分の別荘に呼び寄せたときの言葉。
最上の友人(政界の人で正義を全うしようとしていた人)が、政界の不正を暴くという志半ばで罠にはまり、失脚して大きな不正を暴けなくなる無念に自死しています。
最上は彼の遺志を継ぐべく、この事件を暴き、世に知らしめるため、沖野の協力を得るために呼び寄せるわけですが、そのとき、
「あんな事件のために、この事件を見過ごすのか」
と問い質します。
これには見ている側である私も失望しました。
事件に大小も優劣も軽重もなく、罪は等しく罪で、同党にその罪に相応の罰を受けることであがなうべきだろう、と。
主観を排除して公正な罰を与えてあがなわさせるために法がある。
人は主観や思い込みから間違いを犯しやすいからこそ、数々の犯罪の積み重ねから方が生み出され、順守される。
それを武器として扱う人間が、私情で法を捻じ曲げていいのだろうか、という最上に対する嫌悪感が刺激されるシーンでした。

人が法を守るから、法も人を守る。

根本であるそれを失念している人が現実には多く、また、法の存在を逆手にとって
「法律違反じゃない」
と開き直ってアンモラルな行動に走る人もいる。

法と人、犯罪と人、犯罪と法…そういった雑多な諸々を鑑賞後も延々と考えさせられる作品でした。

二宮くんの演技は安定の名演でした。
木村くんは、初の汚れ役ですかね?(よく分かってない)
『教場』の風間教官との差異があまり感じられず、原作で内容を知っているわけではなかったので、最初はヒール役と思わずに見ていました。笑
科白運びのテンポがよくて、すごく自然な会話のやり取りに見えたので、演技ということを忘れます。
2冊分を1本の作品にまとめるのは至難の業だと思います。
なのでダイジェストっぽく見えても致し方ないかと。
散らかることなく1本にまとめられている脚本は感服ものでした。
今は図書館が閉鎖中なので、コロナ禍が収束して開館したら、原作を借りて読んでみようと思います。