本と映画と日常と

自分が読んだ本、鑑賞した映画と日常の徒然を書き留める備忘録ブログです。感想記事にはネタバレもありますので、各自の判断と責任のもと閲覧くださいませ。

【17.11.28.】『劇場』感想

 

劇場(新潮文庫)

劇場(新潮文庫)

 

あらすじ:
一番 会いたい人に会いに行く。
こんな当たり前のことが、なんでできへんかったんやろな。

演劇を通して世界に立ち向かう永田と、その恋人の沙希。
夢を抱いてやってきた東京で、ふたりは出会った――。

『火花』より先に書き始めていた又吉直樹の作家としての原点にして、書かずにはいられなかった、たったひとつの不器用な恋。
夢と現実のはざまでもがきながら、かけがえのない大切な誰かを想う、切なくも胸にせまる恋愛小説。
(「BOOK」データベースより)

【ここからネタバレ感想です】


 うー……ん、感想が難しい内容のお話でした。
 どなただったか、又吉さんの芸人さんジャンルに於ける人だったか、それとも脚本関係の方だったか、又吉さんを個人的にご存知の著名などなたかが、
「ああ、又吉だな」
 という書評を書かれていた、その言葉だけを記憶しているのですが、そんな感じ、というか…。
 いや、私はまったく赤の他人なのですが、作者の人となりを覗くような感覚で読み進めていました。
 これは作家という意味ではない別ジャンルで名を知られてしまっているがゆえの弊害なのでしょうかね?
 この辺は、のちにビートたけしさんの『アナログ』を読んだ後でも触れたいと思います。
(別ジャンルでの著名人の小説、ということで、作者を投影させて読んでしまうのが、自分の先入観が原因か、作家の書き口が原因かを知りたいので)

 また、恋愛小説ではあるのですが、創作する者としての側面がかなりシェアを占めている気がします。
 私もモジカキの端くれだからか、そっち方面に引きずられて読んでしまった部分が大きかったです。
 主人公の永田は「一般的な常識人」から見ると、かなり最低な人間です。
 ただ、創り手としての自分が彼の不安定さに共感を覚えてしまう部分もあり、「一般的な常識人」としての永田はどこかで沙希に罪悪感や劣等感、同時に依存の自覚も抱いていて、それすら許容していたのであろう沙希の寛容さに対して、女性として憤り(青山ポジで見てしまった自分)、そんな沙希に支えられて創作を続けていられる永田を羨ましく思う部分もあり(私個人が感じたこと)、巧く「こういう作品でした」と言える言葉を持てないまま、これを書き殴っている次第です…。

 逆に、創作と無縁の人はどんなことを感じ思いながらこの作品を読んだのだろう、と(あとでレビューをガサゴソしてこようと思います)。
 そのくらい、私にとってこの作品は「創作への向き合い方指南本」に近い読後感でした。
 物語を作るという部分が、舞台脚本と小説に共通しているので(石田衣良さんは脚本家から作家に転身した有名な例かと)、永田の脚本に対するポリシーや哲学に近い創作論に意識を持っていかれ、沙希との恋愛面が二の次になってしまい、読み方が間違っているな、と自分でも思いました…。
 沙希との恋愛よりも、作家に転身した永田と犬猿の仲である青山女史とのやり取りに気持ちを持っていかれました。笑
 青山女史は
「日常が残酷だから小説を読んでいる時間くらいは読者に嫌なことを忘れてもらいたかったんだ」
 というスタンスで物語を書いている。
 一方の永田は、
「おまえの作品は、民芸品店で売っているおしゃれな小さじと同じ。持っていてもいいけれど別になくて困るものでもない。誰かは好きそうやなとは思うけれど、実際に持っている人に会ったことがない、そういう代物」
「現実忘れたいなら寝てたらええねん。創作はもっと自分に近いもので、人のことを考えている自分のことを考える作業」
「作品を見て不快に思う、憎悪を感じる、それらの感情も含めて受け手の感情を揺さぶるようなものを創作という」
 みたいなポリシーを持っている。
 永田の創作と向き合う姿勢は、先般読んだ保坂さんの指南本に書かれていたことを創り手の生の声として発せられているように受け取れて、この作品を通じて又吉さんの作家としての人となりをあれこれと考えてしまった次第です。
 保坂さん、又吉さん、ともに芥川賞受賞作家なんですよね…。
 本作に登場する青山女史はラノベ作家のスタンス、永田は現代文学作家のスタンス、ということなのだろうか、と、作品や読者と向き合うときの姿勢などを考えさせられるお話でした。

 でも、ここまでの感想は多分、この作品の主旨主題から大幅に逸れているトンデモ感想だと思います。笑

 永田の言う「憎悪や不愉快を含めて、受け手の感情を揺さぶる」のが小説だというのであれば、この作品は見事にそれに成功しています。
 主要人物である永田と、その恋人、沙希のどちらに視点が偏るかで感想がまるで異なる作品だと思いました。
 私は上述のようにずれまくった視点で読んでしまったため、宙ぶらりんになってしまいましたが、女性が恋愛小説としてこの作品を読んだら、かなり嫌な主人公(だって、依存症のヒモにしか見えないですもん…)で、最後まで往生際が悪いな、と読後感が悪くて仕方がないのではなかろうかと思います。
 青山女史のように、沙希に目を覚まして欲しくて焦れながら読み進めるのではなかろうかと。
 創作に覚えがなければ、どれだけ永田が心情を訴えても、多分永田に対する理解どころか同情すら無理だと思うくらいのクズっぷりです(酷い言いぐさだ。笑)
 なぜ沙希がそんなクズにそこまで献身的だったかと言えば、永田の中から消えることのない純粋さと、自分の純粋な部分の波長が合って、演劇の心得もあるだけに、そこを理解し永田の才能を尊敬していたからではないかな、と思います。
 7年という歳月が、永田のために昼夜問わず働く沙希を「世間」や「常識」や「大人として」の何かによって浸食していき、純粋だった恋心が次第に想定外の方向へ転がり落としていったんじゃないかと。
 恋心だけで生きてはいけない厳しい現実を垣間見るような作品でした。
 最後、沙希も永田も、あからさまな結論は出しませんし、そこは読者に委ねているラストですが、おそらく読んだ人の大半が「ああ…」と同じ結論を予想するんじゃないかと思います。
 好きか嫌いかだけで、続ける別れるを決められる恋は、単純でお手軽でいいよな、と思ってしまうくらいには、彼らの恋愛は純粋で切ないものでした。

 面白かった、で終わり、とか。
 面白かった、あれでも誰の作品でどういう話だっけ?
 と思ってしまう作品については、そういうのが好きな読者のいるのに否定するような感想になるため感想記事を備忘録することはしないよう努めているのですが、この作品については、おススメとかよかったとか、そういう「言い切り」ができない、最後の最後に読者を追い詰めるような作品で、非常に感想を書くのに苦心した結果、意味不明な感想になってしまいました…。
 登場する人物の心情のどこかしらに自分を垣間見てしまう作品だと思いました。
 醜い部分や、常識をわきまえていると、それが人間の質としてよいって誰が決めたんだ、という疑問が唐突に湧いて足元をぐらつかされたり、依存と恋愛の境界線はどこにあるのだろうと考え込んでしまったり(まあ、恋愛も依存の一種だとは思っているのですが)、「ああ、面白かった」だけで作品と向き合うのを終わりにしたい人にはメンタルブロウ食らうと思うので、おススメしたくてもできないかもしれません。
 迷いなく自分を信じている人なら酷評する人が多い気がする内容でしょうし、迷いのある人というのは豆腐メンタルだと思うのでダメージ大きいんじゃないかなあ、と。
 私は永田と共感する部分が多かったので(基本的に人と上手く関わることを諦めている変わり者な部分とか、無駄にプライドが高いところとか。笑)、ダメージ大きかったです…。
 それだけに、沙希、という受容の存在がとても眩しくて、だから永田の「必要なのに、一緒にいるとイラつく」という矛盾した気持ちに共感を覚えました。
 自分の醜さを、彼女の優しさから自覚させられてしまうんでしょうね。
 それを受け入れることが、これまでの自分を否定することになる、アイデンティティの崩壊、という恐怖に(無自覚なのだと思いますが)翻弄されて沙希に当たりまくる永田には、同族嫌悪的な嫌悪寒を覚えました。
 それを実際に言動に表してしまうんですかアナタは、みたいな嫌悪感。
 多かれ少なかれ、そういう幼稚な依存心は誰もが持っていると思うので、そういう感情に心当たりがある人はダメージ受けるんじゃないかなあ、と思ったりしました。

 嫌というほど自分を振り返らされる作品だと思います。
 まだ『火花』を読了してないのですが、本当に又吉さんが書きたかった作品らしいとのことだったので、『火花』より先に『劇場』を先に読んだのですが、それで正解だった気がします。
 最後に永田が一つ乗り越えた気がするのは私だけかな…あとで他の方の感想も読んで、自分が気付けないでいた部分も見つけて来ようと思います。