本と映画と日常と

自分が読んだ本、鑑賞した映画と日常の徒然を書き留める備忘録ブログです。感想記事にはネタバレもありますので、各自の判断と責任のもと閲覧くださいませ。

【18.05.31.】『アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発』鑑賞

 

あらすじ:
1961年8月、イェール大学でスタンレー・ミルグラム博士の実験が開始された。
実験は一人が先生、もう一人は学習者となり、先生役が問題を出題。
別室にいる学習者役が答えを間違えると電気ショックが与えられ、間違えるごとに電圧は上げられる。
くじ引きで役割は分けられたが、学習者役は実験の協力者で、被験者は常に先生役になるように操作されていた。
学習者は次第に呻き声をあげるも、被験者=先生役の電気ショックの手は止まらない。
ほとんどの被験者は戸惑いながらも実験の継続を促されると最後の450V(ボルト)まで電気ショックを与え続けた。
この実験は、ナチスによるホロコースト(大量虐殺)がどのように起こったのか?普通の人々が権威にどこまで服従するのか科学的に実証することが目的だったが、その結果は社会に大きな衝撃を与えることに…。

世界で最も有名な心理実験“アイヒマン実験"と実験をしたスタンレー・ミルグラム教授を描いた実話を映画化。
(「キネマ旬報社」データベースより)


「アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発」予告


【ここから感想です】

 

レビューを見るとなかなかの酷評…。^^;
ミルグラム博士の実験について初見か既知かで評価が分かれる作品なのかもしれません。
私は『服従実験』のことを知らなかったので面白く(興味深く)鑑賞しました。
感覚としては、「映画作品=ストーリーを楽しむ」というよりも、「教科書では面白く感じないから頭に入らないけれど、漫画やアニメで読むと頭にサクサク入っていく漫画世界史(とか日本史)」みたいな感覚です。
作中で「哲学者から感情論や道徳観を排除すると社会学者になる」という表現がありましたが、なるほどと思いました。
服従実験って何?」という人にはオススメです。
基本的にドキュメンタリーを見ている感じで、ミルグラム博士の心情にスポットを当てているわけではない気がします。

原題は『Experimenter(実験者)』とのことで、内容的に邦題は大袈裟なのでは?という意見が多いようです。
私はタイトルを見て、ミルグラム博士がアイヒマンの後継者のような存在に変貌していくストーリー展開(映画『es』みたいに、関係者が役に嵌り切っていくにしたがって狂暴化する、みたいな)なのかと思って観始めたのですが、そんなことはなかった。笑
邦題についての受け取り方は様々だと思うのですが、邦題の解釈については、作中で出てきた台詞
「人間には3種類いる」
「1つは行動する者」
「1つはそれを傍観する者」
「もう1つは、“何が起こっているんだ!?”と問い質す(だったかな?;)者」
のどこに自分が属しているかを自己判断する切欠になりそうという気がしました。
私の解釈は
アイヒマンの後継者=世界中にいる人間のうちの65%の比喩
ミルグラム博士の恐るべき告発=残りの35%が抱く感想
です。
関心を引くという意味でセンスが光る邦題だと思いました。
同時に、「あー…私は65%の人間だ…」「傍観者ポジだ…」と、とても嫌な気持ちになりました(苦笑)
今は時代がかなり変わりましたが、当時(ミルグラム博士はユダヤ人で、ホロコーストに強い関心を持っている人で、まだまだ戦争の傷が人々の心に残っている時代の人です)の人たちには受け入れがたい実験結果だったのだろうなと思います。
「我がこと」として「あなたもアイヒマンの後継者になる可能性がある」と言われたら、今の人でも大半が受け入れられないのではないかと。
ミルグラム博士は実際にマスコミや学会、異種学問の学者たちから「人間の倫理観に対する冒とく」「キミの実験は不愉快だ」などと強く批判されています。
物語として(=映画作品として)辛口が多いのは、こういった批判などに葛藤するミルグラム博士の「人間らしさ」があまり掘り下げられていないため、ストーリーの構成に起伏を感じないからではないかと思いました。
エンタメとしては失敗かもしれませんが、観賞する側の琴線に触れるストーリーにしようとするならどうすれば、と考えると難しいとも思いました。
この作品のコンセプトになっている『服従実験』で検証しているのが、
【文化的社会を築く人間が権威に服従する原因は、状況なのか人間の性質なのか】
だから、「映画」という「狭い空間(=世界)」で、「作品(=権威)」が心理的な偏りを含む(=博士の葛藤や生活など)と、作品との矛盾が生じてしまう気がするのです…。
50年にわたる実験の繰り返しの中で、
「何もない空をじっと見上げていると、次第に空を見上げる人が増えてくる」
という実験も行われています。
・誰にも強制されていない
・自分の身に危険が及ぶ状況ではない
それにも関わらず、同調して「何かあるのか?」と見上げてしまうという結果が出ているんですね。
仕掛け人の「空を見上げる行為」が、この作品で省かれた「実験に関わった仕掛け人たちの気持ち」ではないかな、と考えてみると、この作品は物語ではなくレポートのような作品だと思いました。

善悪の話ではなく、「人間の65%はこうである」という、そこにある事実として、
・人は状況によって「権威」に服従してしまう
・人は「代理人化」=責任を負わなくて済む状況にあると個人が持つ倫理から外れても権威に服従してしまう
・集団効果で判断に変容が生じる
 (この実験の場合、被験者は命じる学者の向こうに「この実験は必要」と考える集団を見ている)
ということを流布するために、ミルグラム実験を広める目的で作られた作品だったのかな、と思いました。
(私がこの作品で知ったからそう感じただけという気もしますが)
アイヒマンの裁判の映像も作中で使われていますが、彼は
「自分は命じられた仕事をしただけだ」
「嗜虐を目的としていたわけではない」
といった趣旨のことを述べています。
めちゃくちゃ「普通の人」だったみたいですよね…。
(参照:イエルサレムのアイヒマン
(取り敢えずwikiを参照リンクしましたが、書籍があるらしいので…たっか!と思うので、なんとか探してみたいなと思ってます…)

少し気になった(?)点は、比率としてはかなり少ない、ミルグラム博士のプライベートな部分。
隙間時間に観た感じなので取りこぼしているのだと思いますが、博士が妻と喧嘩をしたのか、
「結婚生活は、選択だ。僕はそれを選んでいる。いつだって、いつでも僕はそれを選んでいる」
と、妻に信じてほしいみたいなことを訴えるシーンがありました。
批判や誹謗中傷が多い中、学者として、研究者としてあちこち飛び回る日々の博士は、それを「状況によってさせられている」のではなく「自分の意志だ」と自分に言い含めているのだろうか、同じくらい、家族との暮らしも「自分の意志で選択したものである」と訴えているのかな、とか。
人は「状況で無自覚に使役される存在」というだけでなく、「自ら選ぶこともできる存在」という前向きな可能性も明示したかったのだろうか、と思ったりします。

実存主義創始者と言われている哲学者、キルケゴール
「人生は後ろ向きにしか理解することができない。しかし、前を向いてのみしか生きられない」
という言葉が引用されています。
日本語訳では作中で
「人生は後ろ向きに理解して、前向きに生きるものだ」
と訳されています。
昨今、世間を賑わせている出来事を彷彿とさせる実験内容とその結果です。
「人とは」というより「自分」も、状況によっては、個の持つ倫理や道徳、良心を押し殺してでも非人道的な行為に走る」という可能性を受け入れつつ、同時に「自ら選ぶことができる存在でもある」ことも忘れずに、事実のみを冷静に見極めて判断することが肝要、と自戒頻りな作品でした。
作品内容が、というか、ミルグラム実験が、というべきか…?(苦笑)
この実験のあらましをご存知ない方に観ていただけるといいな、と思います。